[2015/05/11]

【第3回】キリストと「最後」の預言者

イエス・キリストも預言者の一人
 あのパリ襲撃事件について「特別編」として3回に分けて連載したが、その後もネット上でいろいろな書き込みがあった。 その大半はイスラム教やイスラム教徒に対する批判的な物であったが、その中に一つだけ面白いものがあったので、ここでご紹介。

「イスラム教の預言者がバカにされたのが気に要らないんだったら、対抗してイエスキリストの変な絵でも描けばいいのに!」

 これを見てすぐさま私は「ふ、ふ、ふ、分かってないわねえ」とほくそ笑んだ。
 イエス・キリストは実は、私たちイスラム教徒にとっても、とても大切な方なのだ。
 イエス・キリスト(アラビア語では「イーサー」という)はムハンマドさん同様、神(アッラー)が人間を正しく導くために遣わした預言者のお一人。
 だから間違っても、イエス・キリストをあざ笑うかのような絵をイスラム教徒が描くことは出来ないんですね。

 アッラーは時代ごと、地域ごと、民族ごとに預言者を遣わされ、私たち人間を正しく導かれようとされた。
 全ての民族には必ず一人は預言者をお送りになったというから、私たち日本人のためにも預言者さんはいらしたはず。全ての預言者が神から託されたメッセージはただ一つ"アッラー以外に神はなし"。もちろんイエス・キリストも例外ではなく、他の預言者達同様にこのメッセージを人々に伝え歩いた。
 預言者が一体何人いたのか私たちには全く見当もつかないが、イスラム教徒はその全ての預言者を差別なく敬愛しなければいけない、とされている。

 しかし私たちは、数多くいる預言者の中でも特に、特に、ムハンマドさんを特別視してしまう傾向があるようだ。それは正直否めない。なぜか?
 それは、彼が預言者というグループの最後を締めるお方であるためだ。そして彼は特別な民族に遣わされた預言者ではなく、"万有への慈悲"としてこの宇宙全体に遣わされた預言者であるため。
 そして彼は私達にとって、これ以上ないほどの完璧な模範であるため。
 そして、そして、、、と彼がどんなに特別な人間であるか、を書ききることは正直なかなか難しい。

 しかし預言者ムハンマドさん(彼の上に平安あれ)を敬愛する最大の理由は多分、イスラム教徒であれば彼のことをよく知っている、からではないだろうか。
 クルアーンやハディースを読めば彼がどんな人物であったかがよく分かる。
 預言者ムハンマドさんがどんな人物であったのかが分かれば、この方に対し敬愛の念を持つことは非常に容易だ。
 非イスラム教徒の人達の中にも預言者ムハンマドさんのすごさを認識している人はたくさんいる。「
The 100 A ranking of the most influential persons in history (歴史上最も影響を与えた人物100選)」という本で著者のマイケル・ハートという歴史家は、預言者ムハンマドさんを堂々の第1位に選んだ。
 その理由は、彼は宗教と世俗の両面において"
supremely successful"(この上ないほど非常に優秀な成功者)だからだそうだ。

預言者「様」かどうか、それが問題だ
 ツイッターなどの
SNSでも、日本人イスラム教徒の多くは「預言者様」という書き方をし、預言者さんに対する尊敬を示している。
 私もできることなら預言者様様様と様を
10個くらいつけたい気持ちで一杯なのだが、あえていつも「預言者さん」という書き方に止めているのには、それなりの理由がある。
 まず、「様」というのは、神様にしか使うべきでないと勝手に思い込んでいるため。そして非イスラム教徒の人たちに、私たちがムハンマドさんを崇拝していると思われたくないためと、まあこんな理由からである。

 今回、私たちが心から愛して止まない預言者ムハンマドさんの風刺画が掲載されたことは、本当に残念で辛い事であった。風刺画だけでなく、預言者さんをからかうかのような映画までも制作されたようで、はっきり言って「いい加減にしろ!」と叫びたい。
 ただこういった事態は今に始まったことではなく、預言者さんが生存中からあったわけで、どの時代、どの地域においても、このようなことをする人達には何かしらの魂胆があるはず。
 彼らの腹黒い魂胆にうまく乗らないように、イスラム教徒はもっともっと冷静に対処方を見つけていかなくてはならない。 私たちが感情的に反応するのを見て、彼らはかなり喜んでいるに違いないのだから。

 ちなみに預言者さんの映画を創るにあたってはいろいろな決まりがあるらしい。
 一番大事なこと、これがかなり変に思われる点なのであるが、「預言者さんは登場してはいけない」そして「声も出してはいけない」ということだ。どのようにストーリーが展開をしていけばいいのかというと、預言者さんの周りにいる人たちが「預言者さんがこうおっしゃったぞ」「何だと?それは誠か?ならば!」といった具合に、ご本人が登場しなくても彼の意思やら意図することがわかるようにしておけば、まあなんとか
OKらしい。
 この決まりは多分に、預言者さんへの尊厳に関わる大事な問題なのだろう。
 尊厳ーーそう、よく子供向けの本に神様が登場するが、その描写のひどい事。大抵は年を取ったおじいさん風であるが、他にも背が異様に低かったり、鼻が豚の鼻みたいであったり、とまあ盛りだくさんだ。
 神様に対する尊厳なんてちっとも感じられない。私は声を大にして言いたい、「失礼でしょ、神様に対して」と。

 神様というのは、人間の限られた知能で想像できるようなお方ではない。だからどんなに素敵な神様の絵を描いたとしても、それは神様の真実の姿を写していないので大変「失礼な事」になる。
 これと同様、預言者さんを描写することは失礼なのだ。どんな描写もどんな俳優も彼の偉大さを伝えきることなどできないのだから。
 実際、誰が預言者さんの役を演じることができるであろうか。誰一人として、預言者ムハンマドさんの役なんて演じることはできない。ハリウッドの超人気俳優を連れてきたところで、預言者さんの偉大さにははるか遠く敵わない。いや、はっきり言って、どんな俳優を起用したって、私たちにはそれが"屈辱"以外の何物でもないように感じるだろう。
 ついこの間悪役を演じていたような人物、または浮気しまくりの役を平気で演じられる人物が、今度は私たちの預言者さんを演じる? ありえない、ありえない。

 預言者さんの人生は非常に波乱万丈で、示唆に富む出来事ばかりである。良い意図を持って創ったら、きっと興味深い映画になるだろう。しかし、それでも、わざわざ映画なんて作らなくたっていいでしょう、と私は思う。
 映画を作るとしたら、どうしたって男女が同じ現場に何カ月間もいて、言葉を交わしたりしなければなくなる。
 これはイスラム教の教えにかなり反する行為だ。

 預言者様が知ったら、きっとお怒りになるに違いない。
 あっ、預言者様って書いちゃった。
 うふふ、まっ、たまにはいいっか。