さて、"逃げ"ることに成功した女中さん達がどのような生活を手に入れようとしていたのか、それを考えると思わずムッとしてしまいそうなので、それは次回にお話するとして、今回はイスラム的に、女中とは家庭内でどんな立場で、またどんな扱いを受けるべきかを見ていきたいと思います。
イスラム教の学者さんがテレビでこのようにおっしゃっていた。
「女中を雇う事自体はいけなくはないが、もし雇うのであれば彼女達の衣服と食を自分達のそれと同じレベルにするように」
たとえば、食に関しては、そんなのあたりまえでしょ? なにしろ一緒に暮らしているわけだし、いや、それ以上にわざわざ女中用に別の物を作るなんて面倒くさいではないか。だから私はどこの家でも、女中さんは家族と同じ物を食べているもんだと思いこんでいた。
しかし、私はある日見てしまったのだ。びっくり仰天。私のこの小さな目が、顔の半分位を占拠してしまうほど大きく開かれたあの日。
●学者の意見と現実のギャップ
私はとあるサウジアラビア人のご家庭でランチをごちそうになっていた。出されたお料理はグラタンのようなもの。
「ウン、なかなか美味しいじゃないのよ」と思いながら食べていると、近くでその家のお子様ーーとも言えないような悪ガキではあったが、まあその子が取り分けられたグラタン(のようなもの)にケチャップをビーとかけてグチャグチャに掻き回し始めた。
「いやあ、これはまた随分とまずそうにして食べるなあ」とある意味感心しつつ、私は静かに食べていた。
すると大して食べもしないで、その子はプイッと立って行ってしまったではないか。グラタン(のようなもの)をぐちゃぐちゃにして、結局食べない。やっぱり悪ガキだ、と思っているとその子のお母さんは、私が考えもしなかった恐ろしい行動に出た。
「ちょっと来なさい」と、呼んだのは自分の息子ではなく、なんと女中さん。
「これ食べなさい」と差し出したのは、あのケチャップでぐちゃぐちゃになったアホ息子の食べ残し。それを女中さんは「ありがとう」と受け取るではないか。
ガーン、こんな事って"あり"なのだろうか!可哀そうな女中さん、私だったらあんなもの絶対に食べたくないざます。
呼びつけて、これ食べろとムリにでも食べさせる相手が違うでしょう、と誰でも思うだろうが、ここは異国の地。そういうわけにはいかない、のかなあ?
こういう家庭もあるのだから、学者さんがテレビに出てまで教えないといけないのねえ、きっと。
●家族と同じレベルの服装を
続いて衣服について、これは学者さんには申し訳ないが"家族の者と同じレベル"、とはなかなかいかない場合もある。
何しろ女中さんは、いくら同じ家で暮らしているからと言っても家族ではない。故にその家のご主人やある程度歳のいった息子さん達(12〜13歳以上)の前では、髪の毛を隠し、身体の線が出ないような格好をしなければならない。
家の中でまでそんな格好をして大変そう、と思われるかもしれないが、仕方ない。これはイスラム教の決まり、私達には変えられない事なのだ。
一般的に女中さん達の着ている洋服は長袖のワンピース。ワンピースと言っても、日本で言うネグリジェのような感じ。それをうちのダンナさんは"女中のユニフォーム"と呼んでいるが、我が家ではその"ユニフォーム"を女中さんに着せた事がない。我が家の女中さんはいつもパンツに長袖のシャツ。もちろんシャツは長めでお尻が隠れるようなもの。
これは私が家のなかでいつも着ている洋服とほぼ同じスタイル。「もっとお洒落したらいいのに」と義妹に言われた事もあるが、なんだか常に女中と同じような格好になってしまう。
でもそんな私のお陰で、我が家は学者さんの言う"同じレベル"の衣服を着せているわけだから、なかなか優秀な家庭ではないか。すばらしい。
サウジアラビアに来る女中さんの大半はイスラム教徒だが、たまーにそうでないこともある。例えばエチオピアやスリランカ、そしてフィリピンなどから来る女中の中にはイスラム教徒でない人もいる。しかしだからといって、家の中での彼女達の格好が変わるか、と言ったらそんな事はない。イスラム教徒であろうとなかろうと、ご主人や大きい男の子の前では"ユニフォーム"を着るのがサウジ流。
●ムスリム女中の利点
ほとんどのサウジ人はイスラム教徒である為、やはり女中もイスラム教徒の人を好む傾向にあるのは否めない。女中さんがイスラム教徒であればメッカやメディーナなどイスラム教徒だけが入れる都市に行く際も、一緒にいく事が出来る。旅行中であろうとも、子供達の面倒やら、その他の雑事など女中さんにやってもらいたい事はたくさんあるものだ。
しかしイスラム教徒でない女中を上記の二大聖地に連れていく事は出来ないし、かといって一人で留守番をさせる事も、もちろん出来ない。だから「やっぱりイスラム教徒が良いわあ」となる。
他にも、非イスラム教徒にお金を払うよりもイスラム教徒にお金を払って、その人達が経済的に少しでもよくなった方が良い、そう思う人もたくさんいる。私もこの考えには大賛成。私達イスラム教徒は同胞であるから、お互いに助け合わないと。
貧しい国から来る女中さん達は、自国では仕事がない、またはあってもものすごく安い給料だそうだ。しかしそんな彼女達もサウジアラビアで10年も働いたら、自国でかなり大きな家が建てられるようになる。
我が家に来たスリランカ出身の女中さんも13歳からサウジアラビアで働き始め、20代前半にはもう、スリランカに庭付き一戸建ての持ち主になった。彼女の家の庭には、ありとあらゆる種類の果物の木が植えてあるらしい。鶏もいるし、半自給自足の生活が出来るというから、おったまげる。日本人なんて何十年働こうとも、なかなか庭付き一戸建ての家なんて手に入れられないぞ!
他にもこちらで習った料理をメインにしたレストランをオープンさせる人もいるらしいし、羨ましいじゃないか、あんた達!
●非ムスリム女中の利点
例の学者さんもやはり女中はイスラム教徒の方がいい、とおっしゃっていた。なぜなら大抵の家庭で女中に子供を任せてしまう昨今、もし女中がイスラム教徒でなかったら、子供達に反イスラム的な事を教えてしまうかもしれない。それはアカーンというわけだ。
しかし、非イスラム教徒の女中を雇う利点、というのもある。その理由の一つ、いや唯一の理由とは、イスラム教徒でなかった女中さんが、サウジアラビアの家庭で働いている間にイスラムの教えに触れ、ムスリムに改宗する事。
これはかなりスゴいこと、なのである。
なぜなら、例えばAさんが、Bさんを通してイスラム教を知り、イスラム教徒になったとする。そうするとアッラーは、Aさんが礼拝や断食をして稼いだアジュル(善行)をBさんのものとして記帳されるようにしてくれるのだ。もちろんAさんのアジュルが全く無くなってしまうわけではない、それではちょっと可哀そうすぎる。Aさんはもちろん、自分のやった全ての善行、たとえそれがどんなに小さな事でも、ちゃんと記帳され、最後の審判の日にそれを見る事になる。
アッラーは慈悲深く、そして公正な方である。
うちのダンナさんの弟の家の女中は、イスラム教徒ではない。弟一家は自分たちを通して、女中がイスラム教徒になってくれる事を願って、あえてキリスト教徒の女中を頼んだそうだ。
今のところ彼女が改宗したというニュースは入って来ていないが、インシャアッラー=いつの日か、彼女がイスラム教徒になってくれますように。その女中さんがイスラム教徒になる事は、彼女自身にとってもちろん良い事であるが、弟一家にとってもめちゃくちゃ良い事なのだから。
特別な事をしていなくても、彼女が礼拝をする度にどんどんアジュルが増えていくんだから、すっばらしい。
しかしその為にはかなり、レベルの高い家庭でなくてはならない。我が家のように逃げ出したくなるような家庭では、絶対に改宗者はでないだろう。
ただうちの女中さんは、最初から逃げる事を予定にいれて来ていたのだから、あまり我が家も責められないと思うのだが...。
さて次からは、どうしてうちの女中は最初から逃げようとしていたのか、また逃げるとどんなに良い生活が待っているのか、それを(怒りを押さえながら)じっくりと見ていきたいと思います。
「シャルリ・エブド」事件があって、間が開いてしまったが、もうしばらくサウジの女中さん事情を語りたい。
もう何年も前の事になるが、うちのダンナさんが面白い本を見つけた!と喜んでいた。その本は子供向けであったので、一語一語ちゃんと理解できるように、難しい言葉には注がついて説明がされてあったそうだ。
その本に「フィリピン人」という語が載っていた。その言葉にもちゃんと説明が書いてあるのを発見した彼は、興味津々読んで見ると、何とそこには、、フィリピン人とはすなわち、、、「女中である」と書いてあったそうな。
この説明を読んだ子供達は、町中を歩くフィリピン人のおじさんを見て、「あっ、女中だ」と思う事必至。男も子供もついでに大統領もいるフィリピン人を「女中」と一括処理するには、ちょっと無理を感じるのだが、いいのかなあ...。
●「インドネシア時代」から「アフリカ時代」へ
サウジ国内においては、フィリピン人ではなく「女中=インドネシア人」という時期がかなり長かった。どこの家に遊びに行っても、インドネシア人の女中さんがいたものだ。彼女達は性格も明るく、言われた事は「ハイハイ」と何でもやってくれるので、大変評判が良かった。
我が家にもインドネシアの女中さんがいた事があったが、とてもいい人であった。今でもたまに、また会いたいなあ、と思うほどである。
しかし、彼女達とて人間だ。欠点はある。私的見解ではあるが、彼女達は何でも「ハイハイ」とやってしまう為、サウジ側のファミリーを頭にのせてしまうのである。そして知らず知らずのうちに疲れとストレスを貯め、気づいた時にはパンパン状態。そのうちに破裂して、アパートのから飛び降りたり、前述のように子供を殺してしまったりする。
あまりにも事件や事故が続いたため、とうとうサウジ政府はインドネシアからの女中さんを基本的に受け入れなくなってしまった。もしかしたら、インドネシア政府側が「 もううちの 国民を虐めるのはやめてくれ」と要請したののかもしれないが。
ここに、女中=インドネシア人という時代の幕はあっけなく下りてしまったのである。
インドネシア人に代わって、台頭して来ているのがアフリカ勢。特にエチオピアからの女中さんが一時期ものすごく多くなった時期があった。しかしダンナによると、インドネシア人女中の時代以前はアフリカ人の女中が普通であったらしいから、ただ単に昔に戻ったと言う所だろうか。
インドネシア人を女中として雇う事が出来なくなってしまって、仕方なく我が家も他のサウジファミリー同様、エチオピアからの女中さんを雇った事がある。
うちに来たその女中さんを見たり、他の家の事情を聞いたりして思うに、彼女達はインドネシア人のように言いたいことも言わず、パンパンにはち切れるまでは働かない。言いたい事は言うし、言っても何も改善されぬようであればーー逃げる。
もちろん、インドネシア人もスリランカ人も耐えられなくなれば逃げ出す。しかしエチオピア人はもっとパパーッと居なくなり、サウジファミリーを仰天させる。
実際彼女達は、サウジアラビアに来る前から、逃げるつもりで来ているのだから「早い」だなんてレベルじゃない。超人的な素早さだ。
●逃亡に「失敗」も「成功」のもと?
さて逃げるとどうなるのか。そして、どうしてサウジに来る前から逃げるつもりでいるのか。
これは逃げる事に成功するタイプと、そして失敗するタイプでわけて考えると、とても分かり易い。
まずは逃げる事に失敗するとどうなるのか。
逃げた女中が、一人でウロウロ街中を歩いていると、遅かれ早かれポリスがやって来る。ポリスたちは経験上、どういった感じの人が逃げ出して来た女中かどうか、瞬間的に分かるらしい。今の所私は間違えられた経験がないのが......。
「何やってるんだ、こんな所で?あんた女中でしょ。逃げて来たんでしょ?」と(多分)聞かれパトカーに乗せられる。警察についた女中は、雇い主が来るまで「牢屋」とまではいかないが、逃げた女中専用の部屋に入れられ雇用者が面会にくるのを待つ。面会に来た雇用者が下手に出て「今回逃げた事は許してあげるから、戻って来てはくれないか?」とお願いし、女中側が「あっそう? じゃあ」と両者の折り合いがつけば、それはそれでいい。しかし女中が断固として帰りたがらなければ、これはもう仕方ない。次のステップ、出国準備に進まねばならない。
入国ビザだけでなく、こちらには出国ビザというのがあり、これがないと出国する事が出来ないのだが、これを得る為には病院へ行って、健康診断を受けねばならない。この健康診断の第一の目的は女中が妊娠していないかどうかを見るため、のようだ。可哀そうに、サウジに来て妊娠してしまう女中さんもいるのだから、ひどい話しである。
こうして逃げる事に「失敗」するわけだが、虐待にあっている女中さんにとっては救いであって、決して失敗ではない。しかしそうでない女中さん、つまり出国を望まないで、ずっとサウジに居たい、という女中さんにとっては大失敗なケースである。
雇用者側にとっても契約期間の2年間をちゃんと働いてくれれば、問題はないが、1年そこそこで逃げられては、最初の手付金に始まり、帰りの航空運賃、出国ビザ代まで全て雇用者側の負担なのだから、大変だ。
限られた給料の中から女中を雇う為の出費を捻出する事が、そんなに容易でない家族はたくさんいるし、それプラス女中がどうしても必要だ!という家族だってたくさんいるわけで...。
はっきり言わせてもらえば、「あなた達、そんなに簡単に逃げないで!」といった感じ。
どんなに待遇を良くしてあげても、逃げるつもりでいる女中を思いとどまらせる事はホント難しい。実は、我が家の女中も、、、逃げ出しました。色々と文句の多かった彼女に対し、私達は譲歩に譲歩をした、にも関わらず。逃げていった。あーっ、悔しいー。
当時、一番下の子はまだまだ1歳になるかならないかで手のかかる時期であったため、私的には女中さんがいてくれるというのは、本当に有り難いことであったのだが。
一体どうして、女中たちは逃げようとするのか。これは逃げに「成功した」タイプがどんなものであるのかを知れば、大納得。これは次回に。
●イエス・キリストも預言者の一人
あのパリ襲撃事件について「特別編」として3回に分けて連載したが、その後もネット上でいろいろな書き込みがあった。 その大半はイスラム教やイスラム教徒に対する批判的な物であったが、その中に一つだけ面白いものがあったので、ここでご紹介。
「イスラム教の預言者がバカにされたのが気に要らないんだったら、対抗してイエスキリストの変な絵でも描けばいいのに!」
これを見てすぐさま私は「ふ、ふ、ふ、分かってないわねえ」とほくそ笑んだ。
イエス・キリストは実は、私たちイスラム教徒にとっても、とても大切な方なのだ。
イエス・キリスト(アラビア語では「イーサー」という)はムハンマドさん同様、神(アッラー)が人間を正しく導くために遣わした預言者のお一人。
だから間違っても、イエス・キリストをあざ笑うかのような絵をイスラム教徒が描くことは出来ないんですね。
アッラーは時代ごと、地域ごと、民族ごとに預言者を遣わされ、私たち人間を正しく導かれようとされた。
全ての民族には必ず一人は預言者をお送りになったというから、私たち日本人のためにも預言者さんはいらしたはず。全ての預言者が神から託されたメッセージはただ一つ"アッラー以外に神はなし"。もちろんイエス・キリストも例外ではなく、他の預言者達同様にこのメッセージを人々に伝え歩いた。
預言者が一体何人いたのか私たちには全く見当もつかないが、イスラム教徒はその全ての預言者を差別なく敬愛しなければいけない、とされている。
しかし私たちは、数多くいる預言者の中でも特に、特に、ムハンマドさんを特別視してしまう傾向があるようだ。それは正直否めない。なぜか?
それは、彼が預言者というグループの最後を締めるお方であるためだ。そして彼は特別な民族に遣わされた預言者ではなく、"万有への慈悲"としてこの宇宙全体に遣わされた預言者であるため。
そして彼は私達にとって、これ以上ないほどの完璧な模範であるため。
そして、そして、、、と彼がどんなに特別な人間であるか、を書ききることは正直なかなか難しい。
しかし預言者ムハンマドさん(彼の上に平安あれ)を敬愛する最大の理由は多分、イスラム教徒であれば彼のことをよく知っている、からではないだろうか。
クルアーンやハディースを読めば彼がどんな人物であったかがよく分かる。
預言者ムハンマドさんがどんな人物であったのかが分かれば、この方に対し敬愛の念を持つことは非常に容易だ。
非イスラム教徒の人達の中にも預言者ムハンマドさんのすごさを認識している人はたくさんいる。「The 100 A ranking of the most influential persons in history (歴史上最も影響を与えた人物100選)」という本で著者のマイケル・ハートという歴史家は、預言者ムハンマドさんを堂々の第1位に選んだ。
その理由は、彼は宗教と世俗の両面において"supremely successful"(この上ないほど非常に優秀な成功者)だからだそうだ。
●預言者「様」かどうか、それが問題だ
ツイッターなどのSNSでも、日本人イスラム教徒の多くは「預言者様」という書き方をし、預言者さんに対する尊敬を示している。
私もできることなら預言者様様様と様を10個くらいつけたい気持ちで一杯なのだが、あえていつも「預言者さん」という書き方に止めているのには、それなりの理由がある。
まず、「様」というのは、神様にしか使うべきでないと勝手に思い込んでいるため。そして非イスラム教徒の人たちに、私たちがムハンマドさんを崇拝していると思われたくないためと、まあこんな理由からである。
今回、私たちが心から愛して止まない預言者ムハンマドさんの風刺画が掲載されたことは、本当に残念で辛い事であった。風刺画だけでなく、預言者さんをからかうかのような映画までも制作されたようで、はっきり言って「いい加減にしろ!」と叫びたい。
ただこういった事態は今に始まったことではなく、預言者さんが生存中からあったわけで、どの時代、どの地域においても、このようなことをする人達には何かしらの魂胆があるはず。
彼らの腹黒い魂胆にうまく乗らないように、イスラム教徒はもっともっと冷静に対処方を見つけていかなくてはならない。 私たちが感情的に反応するのを見て、彼らはかなり喜んでいるに違いないのだから。
ちなみに預言者さんの映画を創るにあたってはいろいろな決まりがあるらしい。
一番大事なこと、これがかなり変に思われる点なのであるが、「預言者さんは登場してはいけない」そして「声も出してはいけない」ということだ。どのようにストーリーが展開をしていけばいいのかというと、預言者さんの周りにいる人たちが「預言者さんがこうおっしゃったぞ」「何だと?それは誠か?ならば!」といった具合に、ご本人が登場しなくても彼の意思やら意図することがわかるようにしておけば、まあなんとかOKらしい。
この決まりは多分に、預言者さんへの尊厳に関わる大事な問題なのだろう。
尊厳ーーそう、よく子供向けの本に神様が登場するが、その描写のひどい事。大抵は年を取ったおじいさん風であるが、他にも背が異様に低かったり、鼻が豚の鼻みたいであったり、とまあ盛りだくさんだ。
神様に対する尊厳なんてちっとも感じられない。私は声を大にして言いたい、「失礼でしょ、神様に対して」と。
神様というのは、人間の限られた知能で想像できるようなお方ではない。だからどんなに素敵な神様の絵を描いたとしても、それは神様の真実の姿を写していないので大変「失礼な事」になる。
これと同様、預言者さんを描写することは失礼なのだ。どんな描写もどんな俳優も彼の偉大さを伝えきることなどできないのだから。
実際、誰が預言者さんの役を演じることができるであろうか。誰一人として、預言者ムハンマドさんの役なんて演じることはできない。ハリウッドの超人気俳優を連れてきたところで、預言者さんの偉大さにははるか遠く敵わない。いや、はっきり言って、どんな俳優を起用したって、私たちにはそれが"屈辱"以外の何物でもないように感じるだろう。
ついこの間悪役を演じていたような人物、または浮気しまくりの役を平気で演じられる人物が、今度は私たちの預言者さんを演じる? ありえない、ありえない。
預言者さんの人生は非常に波乱万丈で、示唆に富む出来事ばかりである。良い意図を持って創ったら、きっと興味深い映画になるだろう。しかし、それでも、わざわざ映画なんて作らなくたっていいでしょう、と私は思う。
映画を作るとしたら、どうしたって男女が同じ現場に何カ月間もいて、言葉を交わしたりしなければなくなる。
これはイスラム教の教えにかなり反する行為だ。
預言者様が知ったら、きっとお怒りになるに違いない。
あっ、預言者様って書いちゃった。
うふふ、まっ、たまにはいいっか。
今回のパリ襲撃事件のあと、預言者さん(平安あれ:以後略)の絵を描くことは許されるのかどうか、といった議論が世界各地でおきたらしい。
もちろんシャルリーエブド誌のようにふざけた風刺画を描いていいわけがなく、あの様な愚かな絵は「表現の自由」という"素敵な言葉"で保護するべきではない。どちらかというと「侮辱の自由」と呼ぶべき代物。
...そう思っていただけると、気分的になんとなーく落ち着くのだが...。
さて、では預言者さんの絵をもっともっと好意的に、または宣教目的で描くのはどうなのか。
イスラム寺院(マスジド)に入ったことがある人なら分かると思うが、マスジドの中には一枚の絵も描かれていないのが普通。預言者さんの写真やら肖像画、ましてや偉大な功績を残したイスラム学者の肖像画等を飾っているマスジドもまず存在しない。
なぜなら、"絵を描くこと"についてイスラム教には一つの決まりがあるからだ。そのルールは人間が考え出したものではなく、神様(アッラー)がお定めになった神性な決まりなので、私達はただ単ににそれに従うのが正しい道。
さて、どんな決まりだろうか。
それは"魂を持っている全ての生き物の絵を描いてはいけない"というもの。
つまり預言者さんやその他の人間に限らず、動物や昆虫の絵を描くことも全て禁止されている。学派によっては、顔を描かなければいいとか、いろいろと細かいところで異なる点はあるらしいが、大まかに言えばこれが黄金ルール。
なぜならこれらの生き物は、すべてアッラーがお創りになり、それに魂を吹き込まれたもの。それら神の創造物を、人間という神の創造物の一つが真似て描く。これは多分、アッラーの尊厳を汚す行為なのかもしれない。
生存中に生き物の絵を描いていた人間達には"最後の審判の日"に、それらの絵画に「魂を吹き込んでみろ」と言われるらしい。
生きている間だってそんなことはできない、ましてや死んでから?それもアッラーの御前で?
無理、無理、絶対に(きっと)出来ないだろう。だから生きている間は生き物の絵などは描いておかないほうが無難。
また預言者さんは、「生き物の絵や写真、彫刻などが飾ってある家、そして犬を飼っている家には天使は入ってこられない」ともおっしゃった。
天使と言ってもいろいろなタイプの天使がいて、それぞれに違う任務を任されていのだが、大抵の場合アッラーからの祝福を持ってきてくれたり、私達のために祈ってくれたりなどしてくれる有難い存在だ。
ゆえに、天使には是非ぜひお越しいただきたいもの。
だから家の中に家族の写真を飾ったり、アイドルのポスターを貼ったり、お人形などを置くことは良いことではない。サウジアラビアの家庭にはそういった類の物は一切無い、かと言うと嘘になるが、日本の家庭と比べると段違いに少ないのは確か。
一方で、魂の入っていない創造物、例えば植物や山、海などといった自然のものを描くことには何の規制もないので、絵を描くことが好きな人はそういったものを描けばいい。そしてそういった絵画を飾ることも、もちろん全く問題がない。
サウジアラビアの学校にも、ちゃんと図工の時間がある。しかしこういった宗教的教えが背景にあるため決して「隣の子の絵を描きましょう」とか「お父さんお母さんの絵を描きましょう」と言われることはない。
マスジドや自然の絵を描いたりすることが多い。
それから男子の学校でも女子の学校でも、なぜか必ず"壺"の絵を描く。これは私の住むヤンブー市に限った事かもしれないが、小学生の子供達が壺の絵を描き始めると、「あー、この子もサウジの教育システムに入ったのね」となんだか可笑しくなる。
大抵の子供は、図工の時間に動物や誰かの顔を描いて先生の気を引くような事はしないが、家に帰れば日本のアニメの絵を描いたり、動物の絵を描いたりする子はとても多い。
うちの長女のお友達の一人が、日本のアニメの登場人物であったらなんでも描ける子がいた。あまりにも上手なので、学校で何かの催し時に自分の描いた絵を売って、ちょっとしたお小遣いを稼いでしまったらしい。
よく先生に見つからなかったなあと思うが、先生たちも軽くスルーしちゃったのだろうか。
とはいえ、絵を描くのが大好きな子たちに「そんな絵を描いちゃダメなんだよ」と言うのはなんとなくかわいそうになってしまう。
そう「絵なんか描いたっていいじゃーん、なに堅いこと言ってんのよ」という反論はもちろん十分承知であるが、やはり言わなくてはならない事は言っておかねばならぬ。死んでから後悔したって遅いのだ。
前述したように、この決まりをお定めになったのは、神様(アッラー)ご自身。故に、この規制には何かしら大きな意味があるはず。
人間にとって何か害となるものがなければ、規制など設けられないのが神様だ。神様は私たち人間に、とても慈悲深くあられる。
では、どうして絵を描くことにこんな規制やら規則があるのか。
実は生き物の絵、特に人物の絵を描くというのはイスラム教の最も大事な教え「神の唯一性」を犯してしまう危険性があるからなのである。
こんな話がある。
かなり昔、まだ預言者さんがお生まれにもなっていなかった様な時代の話である。
==
人々はその時代に"偉大"とされた人たちが死んだ後、彼らの絵を描いて家に飾っていたらしい。なぜそのようなことをするのかと聞かれれば『彼らの偉大さを覚えておくためですよ』と答えた。
さて、その世代の人々が亡くなった後、その子供の世代または孫の世代がその絵に向かって今度はお願い事をするようになった。
『どうして絵にお願いをするのか』と聞かれれば『彼らのような偉大な人物であったなら、私達の願いを神様の元まで届けてくださるに違いない』と答えた。
その後、また世代が変わると、今度はその絵に向かって祈りを始めるようになった。
==
こうなってしまうと、かなりやばい。
現在、キリスト教の教会に行くとイエスキリスト(平安あれ:以後略)や彼のお母様の絵が飾られてあるのは、全く珍しいことではない。
私もヨーロッパに旅行に行った時にはよく教会を見て回ったものだが、イエスキリストの絵に向かって十字を切ったり、何かお祈りをしている光景をよく目にした。
神様以外のものに祈ること、または神に同位のものを配すること。
これはイスラム教において、大罪中の大罪。これ以上の罪はないだろうというほどの罪である。
アッラーはクルアーンの中でこのようにおっしゃっている。
『本当にアッラーは(何者をも)彼に配することを赦されない。それ以外のことについては御心にかなう者を赦される。アッラーに何者かを配するものはまさに大罪を犯すものである。』(クルアーン 4-48)
それほどの大罪へとゆっくりゆっくり導いてしまう可能性のある人物画、特に偉大な人の肖像画、これはぜったいに避けねばならない。
ということで私たち預言者さんの絵を描くことは、いかなる理由、状況であろうと許されないのである。
絵を描くことに関し、あと一点忘れてはならないのが、絵の持つインパクト。
例えばイエスキリストの絵であるが、肌の色は白く、金髪で、目は青くと、かなり素敵なイメージで描かれてあるのがほとんど。
これは後世の人たちが「こういうのがいい、こういうのが素敵なのよお」と思って描いた結果である。
本人が実際はどうであったのかは、もうこの際どうでもいいようだ。
そう、"こういうのがいいんだ"といったメッセージが世界中にジワジワと拡がる。
ではそうじゃない人たち、たとえば肌の色が黒い人はどうなる? ダメなの? となってしまうのではないだろうか。
実際、私が留学していた米国ルイジアナ州には、黒人だけが行く教会というのがいくつかあって、彼らはイエスキリストは黒人であったと主張していたように記憶している。彼らにはあのイエスキリストのイメージが受け入れられなかったのではないだろうか。
そして"黒人のイエス説"を聞いた白人たちは「聞いた?あの人たちの言っていることお?」となり、お互いの間に反感の気持ちが生じてしまう。
たかだか"絵"ではあるが、絵の持つインパクト、それが宗教的な物であればあるほど、大きなものがある、と私は思う。
ちなみに全人類の中で最も美しい人物が誰であるかをご存知であろうか。
それは預言者の一人ユースフ(平安あれ)というお方。
彼は人類の祖先アダムに始まり、最後の人間までを含めたすべての人間に与えられる『美』というものの半分を独り占めしてしまったらしい。もちろんそれはユーセフさん御自身の意思によるものではなく、アッラーの御意志によるものなのだが...。
彼の美しさ、そして彼がどのような波乱に富んだ人生を送られたのかはクルアーンの中にある「ユースフ章」を読むとよくわかる。
クルアーンの中では珍しく物語のようになっているので興味深く読めるのではないだろうか。
ちなみに、ユースフさんだけでなく、彼のお父さんもまた、神に選ばれた"預言者"であった。
イスラム教で預言者というのはムハンマドさんだけでない、というのが次回の話を理解してもらう上で、とても大切なのでここにちょっと書き留めておこう。
では次回はようやく、預言者ムハンマドさんが私達イスラム教徒にとってどういう存在であるのか、彼を侮辱するというのは一体どういう意味を持つのか、といった点について書いてみたいと思います。
前回の「特別編(上)」に続いて、シャルリー・エブド事件をサウジアラビアから考えた。
●改宗を迫らないイスラム
イスラム教徒は、世界人口の約20%を占めている。世界中の人間の5人に1人がイスラム教徒なのである。そしてこの比率は年々上がっている。特に欧州ではかなり顕著にイスラム教徒の数が増えていっているようだ。
これはただ単に、イスラム社会からの移民が増えている、というのではなく、欧州の人々の中からもイスラム教に改宗する人が増えている為である。ヨーロッパ内部からイスラム化が確実に始まっているのだ。
イスラム教というのは、「平和」という意味を持つ宗教である。
イスラムの教えを守る事により、個人の心に平和を得て、現世の生活が平和で満たされ、来世においてはもちろん平和の中で暮らすことが保障されている。
平和以外、得ることが何もないような宗教なのである。
歴史を見てもキリスト教徒やユダヤ教徒たちは、イスラム教徒の地において、長い間平和に暮らしてきた。クルアーンにもこう書かれている。
『宗教には強制があってはならない。まさに正しい道は迷悟から明らかに(分別)されている』(クルアーン2-256)
異なる宗教の彼らも改宗を迫られることなく、普通の暮らしを営むことができた。これはイスラム教が平和を尊ぶ宗教である、という証明の一つ。
●復讐を望まなかった預言者
しかしそれに対しキリスト教の地でイスラム教徒は平和に暮らせているだろうか。ユダヤ人に至っては、アラブ人が平和に暮らしていたパレスチナの大地を取り上げて、追い出す始末。
平和を一番大事にするべきイスラム教徒から、平和を取り上げておいて、しかも何かがあれば武力に訴えるような野蛮な宗教であるというイメージを作り上げてきた。そう、そうやって彼らは人々からイスラム教を離そうと躍起になっているのである。
イスラム教徒は今や、迫害そして中傷、嘲笑の的になってしまった。
それに対し、私たちムスリムはどのように対応していけばばいいのだろうか。
クルアーンの中で、アッラーはこのようにおっしゃっている。
『他人に悪を行い、また度を越した復讐を企て地上を騒がすものたち、彼らに対する(アッラーの)罰は痛ましい懲罰があるだけである。だが、耐え忍んで赦してやること、それこそ(アッラーの決められた)確固たる人の道というもの』
(クルアーン:42-42)
『耐え忍んで赦す』とクルアーンにはあるが、それではクルアーンの教えを身をもって教えてくれた預言者さんは、ご自分が嘲笑されたときどんな行動を取られたのだろうか。
有名なお話を一つだけ紹介。
預言者さんがメッカにいらした頃、彼はひどい迫害にあっていた。メッカにいた多神教徒たちには「アッラー以外に神はなし」というメッセージが受け入れられなかったのだ。
ある年、預言者さんはひとりでメッカの近くにあるターイフという町へ宣教のため出かけられた。
「アッラー以外に神はなし」というメッセージがこの町では受け入れられるのではないかという希望を持って向かったのであるが、その町の住民は預言者さんを嘲笑い、石を投げるなどをして追い返してしまった。
血を流しながらメッカへ帰る道中、天使が舞い降りてきて預言者さんにこう言った。
「アッラーはあなたに何があったかをよくご存知である。もしあなたが願うのであれば、彼らの上で二つの山を叩き合わせ、彼らを全員その下に埋めてしもうこともできる。私はその許可をアッラーからいただいた」
これに対し、私たちの預言者ムハンマドさんは「いいえ、そんなことはしないでください。彼らの子孫たちが、もしかしたら『神はアッラーのみ』と信じるようになるかもしれませんから」と答えられたそうだ。
そう、預言者さんは赦すことをお選びになった。自分の決断次第で、簡単に報復することができたにも関わらず、彼はそれを良しとはしなかったのである。
●西側諸国によって分断された中東
今回の風刺画に対し、殺人で報復したのは本当に残念である。殺人は大きな罪だ。犯罪だ。
『人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したと同じである。人の生命を救うものは、全人類の生命を救ったのと同じである』(クルアーン5:32)
このようにアッラーはお定めになった。
では一体どんな策が有効だったのか、それは正直私にはわからない。ただデンマークで風刺画が掲載された時のように、サウジ政府もなぜ不買などのボイコット策を取らなかったのだろうか、との疑問が残る。
またはアラブ産油諸国が足並み揃え、フランスへの石油輸出を禁止するなど、何かしらの方法があったのではないだろうか、という思いはある。なぜイスラム諸国は抗議ばかりをして、具体的な行動を取らなかったのだろうかと。
行動を起こして、相手に自覚を促す強い意志がなくては、なにも変わらないだろうに。
今回の事件でもよくわかるように、西側諸国ははっきり言って、イスラム諸国を軽く見ている。それは今に始まった事ではない。随分と前からの話だ。
何しろ100年前にやってきて、地図上に国境線を引いて、中東世界を自分たちで勝手に分けてしまったのだから。「はい、ここは私の分、そしてここら辺はあなたの分にしましょうよ」といった具合に。
この点に関し、私たちの預言者さんはこのようなことを、1400年以上も前におっしゃっていた。
「諸外国がイスラム諸国を攻撃しようと、公けに誘い合うようになる時がやってくる。それは本当に時間の問題だ」
それを聞いた人達は「どうしてそんなことが可能なのでしょうか。それは、私たちイスラム教徒の数が少ないからでしょうか?」
預言者さんは答える。「そうではない。あなた達は(その時)とても多い。しかしあなた達はまるで海を漂う不要物のようになってしまうのだ。そのためアッラーは敵対する人々の心から、あなた方に対する"恐れ"を取り除いてしまわれる。そしてあなた方には心に病気と弱さをお与えになるだろう」
「その病気というのは、一体何ですか。」
預言者さんはこのようにお答えになった。「(来世よりも)現世を好むことだ」
そう現世を愛しすぎるというのは、立派な病気で、この病気にかかると、心が弱くなるらしい。
●「現世を好む」という「病い」
大抵の人は、今ここにある現世の事しか考えていない。
"この世"でいい家に住みたい。"この世"でいいものが食べたい。"この世"でたくさんのことを楽しみたい。といった具合に。
しかし、アッラーから直接教えを受けている私たちイスラム教徒が、このような態度でもって人生を送っていてはダメなのである。
この世はテスト期間であることを心に留め、来世で天国に入ることが、この世の第一目標にようになっていないといけない。そのような態度でいる者に対し、アッラーは来世とそして現世での成功を約束された。
イスラム教徒が、自分の"今"の生活ばかりを大事にする人ばかりになって、結局イスラムという一つの共同体が弱くなってしまった。おかげで、こんな下らない風刺画などが掲載されるような事が起きるのだ。彼ら西側諸国に、私たちへの敬意が少しでもあったなら、こんな絵を描こうだなんて、最初からきっと思わなかったはずである。
今回のテロ事件は、見方を変えれば私たちイスラム教徒のせいでもある。現世の生活に惑わされ、多忙な生活を送る私たち。人数は増えても、全体の価値が下がるばかりの私たち。預言者さんが生きていらした頃とは比べようもないほどの変わり様。
さあ、これが現実だ。私達が直面している現実、これを変えるにはまず私達一人一人のイスラム教徒が変わっていかねばならない。相手を非難していても、そして自分たちを批判してばかりいても何も変わらない。
今、イスラムという一つの共同体はアッラーのお助けを得るため、なんとしても正しい道、アッラーの定められた道に戻らねばならない。アッラーは正しい行いをする者を愛し、そういった人々をお助けになる。
さて次回は、預言者さんが私たちにとってどういう存在で、その方の絵を描くことがどうしていけないことなのかといった点について考えていきたいと思います。