[2015/03/01]

【特別編】「シャルリー・エブド事件」に想う(上)

 サウジアラビアの英字新聞「アラブニュース」によると、今年1月7日に発生したパリ襲撃事件についてサウジアラビア政府はこのようなコメントを発表した。
「サウジ政府はこの卑怯なテロ行為を強く非難する。このような犯罪はイスラム教のみならず、ありとあらゆる宗教でも受け入れられるものではない。犠牲者のご家族、そしてフランスの人々に対しお悔やみを申し上げたい。1日も早く心の傷から回復されることを願っております」
 パリで起きたこの事件では、12人の命が犠牲になった。
 「シャルリー・エブド」という週刊誌は、私たちイスラム教徒が敬愛する預言者さん(彼の上に平安あれ:以下略)を題材にした風刺画を何度も掲載していたそうだ。そう、何度もである。
 それに対しフランス国内のイスラム教徒にとどまらず、世界中のイスラム諸国からも大きな反発の声が上がっていた。にもかかわらず、雑誌社側は全く改める姿勢を見せず、結局このような悲惨な事件を引き起こしてしまった。
 この事件についてヨーロッパの人たち、そして政治家達、みなさんこぞって「表現の自由」を声だかに叫び、雑誌社の卑劣な行為を正当化しようとしている。
 私に言わせれば、そんな「表現の自由」なんてクソ食らえ!だ。

ご都合主義の「自由」
 人という生き物は、周りの人たちと関わり合いながら人間となり得るとどこかに書いてあったのを思い出す。人は誰も一人では生きてはいけない。だから人間として他の人たちと混じり合い、助け合いながらやっていくべきであるという。
 ゆえに、周りの人の気持ちを思いやること、そして敬意を持って接する事、そういうことが大切になってくるのではないだろうか。
 「他者を思いやる」といった超基本的、そしてとても大事な事よりも「自分の思ったことを言う」「自分の描きたいように描く」と言う自由の方が大切なのか。そんな社会を一体誰が欲しているというのだろう。
 しかしフランスでの「表現の自由」は、相手が少数派、または力のないものに対してのみ、認められているように見受けられる。特にイスラム教やイスラム教徒をターゲットにした「表現の自由」は、国家レベルでもその自由が認められている。
 それに反し、「反ユダヤ人」「反ホロコースト」または「反同性愛」的な発言をしてしまった人には、今まで「言論の自由だ」「表現の自由だ」、と叫んでいた人物が何の羞恥心もなく、平気でその人を捕まえて刑務所に入れたり、国外退去を命じることができるのだ。
 現にシャルリー・エブドで以前働いていた記者の一人が、「お金に汚い」という典型的なユダヤ人の風刺画を描いたことがあった。2年前の話である。その記者さんは即刻クビ、そしてその後は裁判にかけられたという。
 またとあるイスラム学者の一人が、お隣の国ドイツで「同性愛はイスラム的に受け入れられない」といった発言をしたためすぐさま国外退去を命じられ、15年間はドイツへの再入国は禁止されたと言っていた。これはドイツであって、フランスではないが、同じようなことがフランンスでだって十分あり得ると私は思う。

許されぬスカーフ
 フランスといえば「平等、自由、博愛」という標語が有名で、いかにも洗練された大人の国、といった感じが漂うが、本当のところはどうなのだろうか。
 歴史を見てもわかるように、フランスはアルジェリアをはじめ他国を武力で押さえ込み、どんどん植民地を増やしていった国である。
 パレスチナに入植してきたユダヤ人や、あのわけのわからぬ組織「イスラム国」と大して変わらず、何もしていない無実の人たちの自由を平気で奪いとっていた国なのである。
 そんな国が平等?自由?博愛?マジ?って誰でも思うでしょう。
 実際、自由を叫ぶフランス国内において、イスラム教徒の女性が頭に巻くスカーフ(ヒジョーブ)を公共の場で着用することが禁止されていることをご存じだろうか。
 一体どこら辺に個人の「自由」、個人の「表現の自由」があると言うのだ? イスラム教徒の女性達は「私はイスラム教徒だ。アッラーの教えに沿った生活をしているんだ」という表現をしたいのである。なのにそんなことは許されない。
 確かにビーチで半ヌード状態でいることについては、とっても自由。何のお咎めもなしである。街中でどんなに短いスカートを履こうが、ピチピチのパンツを履こうがそれはもちろん「自由」。
 しかしイスラム教徒の女性が体を覆い隠す洋服を着て、髪の毛を隠した瞬間「なんだって?あかんだろ!」となる。これほどはっきりしたダブルスタンダードを見せつけられては、天晴れすぎてある意味感心してしまうくらいだ。

植民地支配の結果
 フランス国内にたくさんいる移民系フランス人。その多くはイスラム教徒だ。フランスが植民地にしていった国々から来た人たちが大半である。今回の事件の犯人も、そう、その移民系フランス人。
 彼らはフランスに自分達の国を支配され、屈辱と貧困の中で暮らすことを余儀なくされていた。そしてフランスの景気が良い時には安い労働者として受け入れられ、もてはやされた。しかし景気が悪くなれば、あたかもフランス人から仕事を奪っているかのごとく、嫌悪の目で見られてきた。
 帰りたくとも、帰る場所もなく、フランスに留まることを余儀なくされている移民たち。彼らには就職や、教育、社会保障の面などではっきりとした差別があると聞く。多くの移民系フランス人は重いハンディを背負わされ暮らしているのが現実だ。
 確かに民族が違えば文化も違う。自分と違うものを受け入れるのはそんなに簡単なことではないのだろう。フランスに限らず、多くの国で移民に嫌悪感を抱く人は、決して少なくないはず。正直、その気持ちはわからぬでもない。特に国が不景気の時、自分は失業中なのに、他の国から来た移民たちはちゃんと働いて生活している、というのであれば、心中穏やかではいられない。
 しかし今回のこの雑誌社の態度、あまりにもレベルが低すぎはしないか。これでは小さい子が嫌いな子に向かって「ヤーイ、お前の母ちゃんでべそ」とあっかんべーをしているようなものである。  すでにストレスの塊のような状態の人たちに向けたこのような行為が反発を生まないわけがないではないか。

イスラエルとフランスにとっての「自由」
 大抵の行為には、それに見合った見返りがあるものだ。悪い行いに対しては、悪い見返りが、良い行いに対しては、良い見返りが(もちろん、いつもそうとは言えないが...)。
 今回の雑誌社の「悪い行い」には、悪い見返りがちゃんとあった。それに対し、あたかも相手だけが悪いかのようにガーガーわめき叫ぶ、というのは一体どういうことだ。
 なんだか「洗練された大人の国」というイメージが、一挙にガラガラッと音を立ててどっかに飛んで行ってしまった感じを覚える。
 フランス大統領をはじめ各国の首脳達は、亡くなった人たちに哀悼の意を表した。もちろんそれは素晴らしいことである。大いに泣いて人の死を感じてほしい。
 ただフランスで12人の命が一瞬にして消えてしまった日、イラクやシリア、パレスチナにおいてもたくさんの命がこの世から失くなってしまったはずだ。中東問題に対し、フランスは全くの無関係ではない。しかしアラブ人が死んでも、フランスの政治家達は涙を流したりなんかはしないのだ。 「平等、自由、博愛」というのは、肌の白い人、もともとフランスにいた人たちにのみ適用される言葉なのだから。
 テロ事件後、首脳たちも参加して「表現の自由」のための大規模なデモ行進が行われた。その中にイスラエルのネタニヤフ首相が並んでいたのを見たとき、私は目を疑った。この人はよくもまあ、堂々と恥ずかしくもなくこんなデモに参加できたものである。パレスチナ人のありとあらゆる自由を剥奪しておいて、何が「表現の自由」だ。パレスチナ人には必要最低限、人間として生きて行く基本的な人権さえ奪われているというのに。
 ネタニヤフ首相や他の欧州のリーダーが行進しているのを見たとき「表現(または言論)の自由」なんて、ただ単に政治家達が使う道具、国民をコントロールするための道具にすぎないことを痛感した。
 フランスが「平等だ、自由だ、博愛だ」と叫べば叫ぶほど、恐ろしさを感じるのは私だけではないはず。肌の白い人たちの自由や平等のため、一体どれだけ他の民族が犠牲になればいいと言うのだ。

過去にはボイコット運動も
 預言者ムハンマドさんを中傷した風刺画はフランスだけでなく、他の国でもあった。20059月にはデンマークの日刊紙に風刺画が掲載された。
 これに対し、サウジアラビア政府はデンマークからの製品をボイコットする作戦に出た。当時はスパーマーケットに行くとなんとなーくピリピリした雰囲気があったものだ。みんなして「買うもんか、絶対に買うもんか」といった覚悟を全身から醸し出している感じで、、、ちょっと面白かった。  あれはなかなか素晴らしい政策だったと思う。かなり有効であった様で、その後デンマークで風刺画が掲載された話は聞かない。経済的な打撃、つまり金ほど人を動かすものはないのだろう。
 私たちイスラム教徒にとって、預言者さんはどういう存在で、またそのお方が嘲笑の対象になるということがどういうことであるのか、それは後ほどターップリと触れるとして、今はまず被害者であるフランス側が100%無実ではない、ということを強調しておきたい。
 ちなみに今回の雑誌社は、このテロ事件のおかげで発行部数が飛躍的に伸びたそうなので、きっとまた懲りずに描き続けることでしょう。