[2015/04/05]

【特別編】「シャルリー・エブド事件」に想う(下)

 今回のパリ襲撃事件のあと、預言者さん(平安あれ:以後略)の絵を描くことは許されるのかどうか、といった議論が世界各地でおきたらしい。
 もちろんシャルリーエブド誌のようにふざけた風刺画を描いていいわけがなく、あの様な愚かな絵は「表現の自由」という"素敵な言葉"で保護するべきではない。どちらかというと「侮辱の自由」と呼ぶべき代物。
 ...そう思っていただけると、気分的になんとなーく落ち着くのだが...。

 さて、では預言者さんの絵をもっともっと好意的に、または宣教目的で描くのはどうなのか。
 イスラム寺院(マスジド)に入ったことがある人なら分かると思うが、マスジドの中には一枚の絵も描かれていないのが普通。預言者さんの写真やら肖像画、ましてや偉大な功績を残したイスラム学者の肖像画等を飾っているマスジドもまず存在しない。
 なぜなら、"絵を描くこと"についてイスラム教には一つの決まりがあるからだ。そのルールは人間が考え出したものではなく、神様(アッラー)がお定めになった神性な決まりなので、私達はただ単ににそれに従うのが正しい道。
 さて、どんな決まりだろうか。

 それは"魂を持っている全ての生き物の絵を描いてはいけない"というもの。
 つまり預言者さんやその他の人間に限らず、動物や昆虫の絵を描くことも全て禁止されている。学派によっては、顔を描かなければいいとか、いろいろと細かいところで異なる点はあるらしいが、大まかに言えばこれが黄金ルール。
 なぜならこれらの生き物は、すべてアッラーがお創りになり、それに魂を吹き込まれたもの。それら神の創造物を、人間という神の創造物の一つが真似て描く。これは多分、アッラーの尊厳を汚す行為なのかもしれない。
 
 生存中に生き物の絵を描いていた人間達には"最後の審判の日"に、それらの絵画に「魂を吹き込んでみろ」と言われるらしい。
 生きている間だってそんなことはできない、ましてや死んでから?それもアッラーの御前で?
 無理、無理、絶対に(きっと)出来ないだろう。だから生きている間は生き物の絵などは描いておかないほうが無難。
 
 また預言者さんは、「生き物の絵や写真、彫刻などが飾ってある家、そして犬を飼っている家には天使は入ってこられない」ともおっしゃった。
 天使と言ってもいろいろなタイプの天使がいて、それぞれに違う任務を任されていのだが、大抵の場合アッラーからの祝福を持ってきてくれたり、私達のために祈ってくれたりなどしてくれる有難い存在だ。
 ゆえに、天使には是非ぜひお越しいただきたいもの。
 だから家の中に家族の写真を飾ったり、アイドルのポスターを貼ったり、お人形などを置くことは良いことではない。サウジアラビアの家庭にはそういった類の物は一切無い、かと言うと嘘になるが、日本の家庭と比べると段違いに少ないのは確か。 

 一方で、魂の入っていない創造物、例えば植物や山、海などといった自然のものを描くことには何の規制もないので、絵を描くことが好きな人はそういったものを描けばいい。そしてそういった絵画を飾ることも、もちろん全く問題がない。
 サウジアラビアの学校にも、ちゃんと図工の時間がある。しかしこういった宗教的教えが背景にあるため決して「隣の子の絵を描きましょう」とか「お父さんお母さんの絵を描きましょう」と言われることはない。
 マスジドや自然の絵を描いたりすることが多い。
 それから男子の学校でも女子の学校でも、なぜか必ず"壺"の絵を描く。これは私の住むヤンブー市に限った事かもしれないが、小学生の子供達が壺の絵を描き始めると、「あー、この子もサウジの教育システムに入ったのね」となんだか可笑しくなる。

0403壷カラー.jpg

 大抵の子供は、図工の時間に動物や誰かの顔を描いて先生の気を引くような事はしないが、家に帰れば日本のアニメの絵を描いたり、動物の絵を描いたりする子はとても多い。
 うちの長女のお友達の一人が、日本のアニメの登場人物であったらなんでも描ける子がいた。あまりにも上手なので、学校で何かの催し時に自分の描いた絵を売って、ちょっとしたお小遣いを稼いでしまったらしい。
 よく先生に見つからなかったなあと思うが、先生たちも軽くスルーしちゃったのだろうか。

 とはいえ、絵を描くのが大好きな子たちに「そんな絵を描いちゃダメなんだよ」と言うのはなんとなくかわいそうになってしまう。
 そう「絵なんか描いたっていいじゃーん、なに堅いこと言ってんのよ」という反論はもちろん十分承知であるが、やはり言わなくてはならない事は言っておかねばならぬ。死んでから後悔したって遅いのだ。
 前述したように、この決まりをお定めになったのは、神様(アッラー)ご自身。故に、この規制には何かしら大きな意味があるはず。
 人間にとって何か害となるものがなければ、規制など設けられないのが神様だ。神様は私たち人間に、とても慈悲深くあられる。
 では、どうして絵を描くことにこんな規制やら規則があるのか。
 実は生き物の絵、特に人物の絵を描くというのはイスラム教の最も大事な教え「神の唯一性」を犯してしまう危険性があるからなのである。

 こんな話がある。
 かなり昔、まだ預言者さんがお生まれにもなっていなかった様な時代の話である。
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 人々はその時代に"偉大"とされた人たちが死んだ後、彼らの絵を描いて家に飾っていたらしい。なぜそのようなことをするのかと聞かれれば『彼らの偉大さを覚えておくためですよ』と答えた。
 さて、その世代の人々が亡くなった後、その子供の世代または孫の世代がその絵に向かって今度はお願い事をするようになった。
 『どうして絵にお願いをするのか』と聞かれれば『彼らのような偉大な人物であったなら、私達の願いを神様の元まで届けてくださるに違いない』と答えた。
 その後、また世代が変わると、今度はその絵に向かって祈りを始めるようになった。
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 こうなってしまうと、かなりやばい。
 現在、キリスト教の教会に行くとイエスキリスト(平安あれ:以後略)や彼のお母様の絵が飾られてあるのは、全く珍しいことではない。
 私もヨーロッパに旅行に行った時にはよく教会を見て回ったものだが、イエスキリストの絵に向かって十字を切ったり、何かお祈りをしている光景をよく目にした。
 神様以外のものに祈ること、または神に同位のものを配すること。
 これはイスラム教において、大罪中の大罪。これ以上の罪はないだろうというほどの罪である。
 アッラーはクルアーンの中でこのようにおっしゃっている。

『本当にアッラーは(何者をも)彼に配することを赦されない。それ以外のことについては御心にかなう者を赦される。アッラーに何者かを配するものはまさに大罪を犯すものである。』(クルアーン 4-48)

 それほどの大罪へとゆっくりゆっくり導いてしまう可能性のある人物画、特に偉大な人の肖像画、これはぜったいに避けねばならない。
 ということで私たち預言者さんの絵を描くことは、いかなる理由、状況であろうと許されないのである。
 絵を描くことに関し、あと一点忘れてはならないのが、絵の持つインパクト。
 例えばイエスキリストの絵であるが、肌の色は白く、金髪で、目は青くと、かなり素敵なイメージで描かれてあるのがほとんど。
 これは後世の人たちが「こういうのがいい、こういうのが素敵なのよお」と思って描いた結果である。
 本人が実際はどうであったのかは、もうこの際どうでもいいようだ。
 そう、"こういうのがいいんだ"といったメッセージが世界中にジワジワと拡がる。
 ではそうじゃない人たち、たとえば肌の色が黒い人はどうなる? ダメなの? となってしまうのではないだろうか。

 実際、私が留学していた米国ルイジアナ州には、黒人だけが行く教会というのがいくつかあって、彼らはイエスキリストは黒人であったと主張していたように記憶している。彼らにはあのイエスキリストのイメージが受け入れられなかったのではないだろうか。
 そして"黒人のイエス説"を聞いた白人たちは「聞いた?あの人たちの言っていることお?」となり、お互いの間に反感の気持ちが生じてしまう。
 たかだか"絵"ではあるが、絵の持つインパクト、それが宗教的な物であればあるほど、大きなものがある、と私は思う。

 ちなみに全人類の中で最も美しい人物が誰であるかをご存知であろうか。
 それは預言者の一人ユースフ(平安あれ)というお方。
 彼は人類の祖先アダムに始まり、最後の人間までを含めたすべての人間に与えられる『美』というものの半分を独り占めしてしまったらしい。もちろんそれはユーセフさん御自身の意思によるものではなく、アッラーの御意志によるものなのだが...。
 彼の美しさ、そして彼がどのような波乱に富んだ人生を送られたのかはクルアーンの中にある「ユースフ章」を読むとよくわかる。
 クルアーンの中では珍しく物語のようになっているので興味深く読めるのではないだろうか。

 ちなみに、ユースフさんだけでなく、彼のお父さんもまた、神に選ばれた"預言者"であった。
 イスラム教で預言者というのはムハンマドさんだけでない、というのが次回の話を理解してもらう上で、とても大切なのでここにちょっと書き留めておこう。

 では次回はようやく、預言者ムハンマドさんが私達イスラム教徒にとってどういう存在であるのか、彼を侮辱するというのは一体どういう意味を持つのか、といった点について書いてみたいと思います。