[2015/08/05]

歌う列車【インド・ニルギリ山岳鉄道】

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 朝の陽射しが降り注ぐなか、ニルギリ山岳鉄道の列車が始発駅のメットゥパーラヤム駅のホームをゆっくりと離れた。目指すは標高約2000メートル、高原の避暑地だ。
 切符購入の時にひと悶着あったが、無事に乗車できて心底ほっとした。
 やや小ぶりの車内を見渡すと簡素な座席は満席の状態。顔ぶれは僕の後ろの席にドイツ人の老夫婦が座るのみで、あとはインド人ばかり。この日は偶然に連休初日ということで、行楽へ向かうインドの人々の高揚感が車内に充満しているようだった。
 しばらくすると、車両の中ほどで男の子と女の子が突然歌い始めた。小学校低学年かと思う年齢の2人が、澄んだきれいな歌声を披露すると、周りの大人達はしばし黙って耳を傾けた。やがて歌い終わると自然に拍手が湧いた。
 ところが、この少年少女の歌声が、車内に充満した高揚感に火を付けた。その後、僕の乗った車両は歌声が途絶えず「走るカラオケルーム」と化していった。ひとつの車両にいくつものグループが乗っていて、グループ間は見ず知らずのはずだが、これではまるで慰安旅行のバスの車内のようだ。

 そうこうしているうちに、まさかの出来事が起きた。外国人の僕に歌の順番がまわってきたのだ。
 「ジャパニーズ ソング、プリーズ...」
 始発駅で荷物番を引き受けてくれたうえ、席まで確保してくれた若者グループの面々が笑いながら首を横に振っている。この仕草はインドでは「イエス」を意味する。「さあどうぞ!」とでも言いたげだ。
 さて、親切を受けた以上断る訳にもゆかない。とっさの事に僕の頭のなかは、この列車を押し上げる機関車の動輪ぐらいのスピードでフル回転した。そこで浮かんだ曲が「与作」だった。何しろここは山岳鉄道、周囲は木こりの居る与作の世界だ。それにあのメロディーは如何にも古き佳き日本のイメージで、この場にピッタリだと思った。
 さっそく「与作」を歌い始めると、意外にも真剣に僕の歌に耳を傾けてくれているではないか...。カラオケなどで歌っても、決して褒められた事のない僕にとって、それは新鮮で心地の良い瞬間だった。そして更に2フレーズ目に「ヘイ、ヘイ、ホー」と歌ったところで、周りの人々が「ヘイ、ヘイ、ホー」と繰り返してくれたのだ。インド人が「与作」を知っているとは思えない。即興でリピートした彼らの才能に感激した。
 何とか歌い終わり拍手を貰うと、今度は後ろの席のドイツ人老紳士が歌う番になった。彼も始めは躊躇していたが、意を決したように歌い始めた。なんとそれは、クラシック音楽か賛美歌を思わせるような美しいメロディーだった。その歌を聴いた瞬間、なぜだか「負けた!」と思った。

 ドイツ人老紳士の歌が終わったところで、ふと窓の外を見ると、列車はいつの間にか深い森のなかを走っていた。線路の勾配は一層急になっている。
 窓を開いて少し顔を出すと、心地良い風に交じって、隣の車両から歌声が聞こえてくるではないか!きっと我が車両の盛り上がりが伝播したに違いない。
 ニルギリ山を目指す登山列車は、いつしか人々の歌声が響く歌声列車になっていた。